おはようございます。
2024年1月1日の「令和6年能登半島地震(M7.6)」から 2年3か月 (826日) が過ぎました。
2011年3月11日の「東日本大震災(M9.1)」と「福島第一原発事故」から 15年 (5506日) を迎えました。
1995年1月17日の「阪神・淡路大震災(M7.3 死者6,437人、重軽傷者43,792人)」から 31年目 です。
…さて、
米国とイスラエルによる対イラン攻撃(2月28日)から、本日で 38日 が経過しました。
相も変わらず、トランプさんの発言に世界は翻弄され、ホルムズ海峡が実質的に閉じられた不安定な状態のまま変わっていません。エネルギー危機が早期に解決することを祈るばかりです。
ただ、日本にとって、多少の安心材料もでてきているようです。
3月2日、日本のINPEX(旧国際石油開発)が、経済産業省が49%の株式を持つアゼルバイジャンの油田事業会社を買収し100%子会社化しました。
この買収を契機に、3月25日にオーストラリア北部での新たな陸上鉱区(LNG・ガス供給網)の権益の獲得や、3月30日にはインドネシア国営石油(プルタミナ)との協業拡大をし、3月27日にはアゼルバイジャン沖ACG油田(カスピ海)の原油の日本への輸送などが次々に検討されています。
日本にとって、中東・豪州・カスピ海の三極体制の資源配置ということになり、ほとんどの原油調達先がホルムズ海峡に依存している状況が分散するので、日本のエネルギー安全保障政策上では大きなリスク転換点となるようにみえます。
ただ、INPEXに寄せすぎるリスクはあるかもしれませんが、時系列でみると、まるで危機管理の見本のような政府の動きに見えます。1990年代からの日本政府の外交努力の賜物ということもありそうですが、素晴らしいですね。
…と言っても、原油の調達量は現在の約94%の中東依存から、最大70%程度まで依存度を低下させるくらいではないかとの試算もあり、いずれにしても中東が日本にとってのチョークポイントであることは変わりありません。
※関連コラム
・ホルムズ海峡危機と「油断!」【秋山進のリスクの本棚】(思則有備)
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◆「首都直下地震・新被害想定」をどう読むか?(廣井悠・東大教授 講演録)
記事を読む⇒https://www.seishop.jp/blog/tokyo-inland-earthquake-damage-estimates/
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2025年12月19日に日本政府(内閣府)が12年ぶりに「首都直下地震の新・被害想定」をまとめ公表しました。
報告書だけで全117ページに及び、正直なところ、専門用語も多く、報告書を最初から最後まで読むのはかなり大変です。
そこで、セイショップ(麹町アカデミア)では、この首都直下地震検討ワーキンググループの委員を務められた東京大学先端科学技術研究センターの廣井悠教授をお迎えし「首都直下地震の新被害想定をどう読むか」を解説いただきました。
2026年2月18日に六本木で開催されたセイショップの講座の模様を講演録としてまとめています。ご一読ください。
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…さて、コラムです。
防災格言と二宮尊徳の「九年の蓄え」
私事で恐縮ですが…
以前、先人らの災害観を「防災格言」として紹介する週刊連載(メルマガ)を15年(全782話)続けました。
※週刊防災格言のバックナンバー
⇒ https://shisokuyubi.com/category/bousai-kakugen
「防災格言」の企画は2007年5月に始まりました。
その際、連載開始までに、掲載のリスク管理の一環で、あらかじめ40人40格言集めておこう、と決めました。
事前に集めた40格言には、有名な寺田寅彦「災害は忘れた頃来る」や「正しく恐れる」、春秋左氏伝「備えあれば憂いなし(有備無患)」、上杉鷹山「かてもの」、濱口梧陵「稲むらの火」、鴨長明「方丈記」などがありましたが…、
40格言のうち、その後の15年で紹介できなかった格言が2つばかりありました。
その1つが、今回ご紹介する二宮尊徳(二宮金次郎)の「九年の蓄え」のお話です。
「九年の蓄え」は、食糧備蓄の国家原則
二宮尊徳(1787〜1856)は、江戸時代の相模小田原藩の農政家です。通称の二宮金次郎で知られ、かつて薪を背負いながら読書をする姿を描いた銅像が小学校の校庭にありました。
勤勉・倹約・道徳の象徴として語られることが多いのですが、本来の尊徳は「食糧備蓄を国家の第一義と考えた思想家」で数々の農政改革を実行した人物でした。
尊徳がよりどころとしたのは、中国古典『礼記(王制篇)』に記された次の言葉です。
※「礼記(らいき)」は前漢時代(紀元前)に戴聖(たいせい 生没年不詳)がまとめた書物
… … … … … …
“国に九年の蓄えなきを不足といい(国無九年之蓄曰不足)、
六年の蓄えなきを急といい(無六年之蓄曰急)、
三年の蓄えなきを国その国に非ずという(無三年之蓄曰国非其国他)。
三年耕して必ず一年の食糧有り(三年耕必有一年之食)、
九年耕して必ず三年の食糧有り(九年耕必有三年之食)、
三十年を通してこのようにすれば(以三十年之通)、
凶年、旱魃、洪水の害有りといえども(雖有凶旱水溢)、
民に菜色なし(民無菜色)、
然る後、天子は日々の食事を奏楽して味わうを得るなり(然後天子食日挙以楽)。”
※「菜色なし」は、顔が青くならない、という意味。
「奏楽」は、楽器の演奏、の事。
… … … … … …
ここで言う「蓄え」とは、金銀財宝ではありません。
米を中心とした食糧備蓄を指しています。
つまり、平時にこそ倉を満たせという予防思想であり、それをまとめると、
・備蓄は9年が理想、
・6年の備えがなければ、それは危機であり、
・3年の備えがなければ国家として失格である
という基準を明確に示しました。
さらに、
・収穫の4分の1を毎年蓄えること
・それを30年も続ければ、凶作・水害があっても民は飢えない
と説いています。
つまりこの言葉は、「食糧を三年分も備えていない国は、もはや国とは呼べない」という、極めて厳しい国家観を示しています。
尊徳はこの思想を、倫理や理想論としてではなく、現実の政治原則として受け止めました。
凶作や飢饉は将来、必ず起こります。だから問題は、飢饉が発生した際に、民が生き延びられるかどうかである。そして、その鍵を握るのは、平時からの食糧備蓄しかない。
――と、尊徳の思考は、最初から最後まで一貫していました。
天保飢饉が露わにした「食糧なき国」の実態
天保七年(1836年)、日本は全国的な冷害と天候不順に見舞われました。いわゆる「天保の大飢饉」です。
不作が続き、都市も農村も等しく食糧不足に陥り、人々は草の根や木の皮を口にしました。各地で餓死者が続出し、社会不安は極限に達していきます。
下野国烏山藩(現在の栃木県那須烏山市)も例外ではありませんでした。
倉庫の食糧は空、財政は破綻寸前で、領内には備蓄米がほとんど存在しない状況下で、城中では「腹を空かせた民らが乱入すれば、大砲で追い払うしかない」という声すら上がっていたと伝えられています。
尊徳の視点からすると、これは「不運な天災」だけでなく、日常から食糧備蓄を怠ってきた政治による問題でした。
一年の不作で国が崩れるということは、そもそも数年分の食糧を平時から蓄えていなかったということに他なりません。
尊徳は、飢饉を「突発事故」として扱う思考そのものを、強く否定していました。
尊徳が最初に拒んだ理由「救済よりも食糧政策を」
この危機に心を痛めた烏山藩天性寺の円応和尚(1796頃〜1837)と、烏山藩家老の菅谷八郎右衛門(1784〜1852)は、農村復興で名高い二宮尊徳に救済を求めます。
円応和尚は自ら尊徳のもとを訪れ、飢えた民を救ってほしいと懇願しました。
しかし、尊徳の答えは冷然とした拒絶でした。
その理由は明確です。
尊徳にとって、飢民救済は必要ではあっても、それは食糧政策の代わりにはならないからです。
民を飢えさせない責任は、第一に藩主と家老にある。
食糧の備えを怠ったまま、非常時になってから他人に救済を求めるのは、職分を誤っている。
さらに彼は、『礼記』の言葉を引きながら、こう断じます。
「三年の食糧備蓄も持たずして、国と言えるはずがない。」
尊徳が問題にしたのは、人助けの善悪ではありません。
なぜ食糧を蓄えてこなかったのか。
なぜ平時に備えを作ってこなかったのか。
その一点に、彼の政治への批判は集中していました。
二百両の意味=食糧不足を一時的に補うために
とはいえ、尊徳は理屈のために人命を見捨てる人物ではありませんでした。正式な藩命を経て再度要請がなされたとき、彼は現実を見据えた決断を下します。
「順路を踏んでいては、民が先に飢え死にしてしまう。」
そう言って尊徳は、自らの私財から二百両を差し出します。
この金の本当の意味は、「施し」ではありませんでした。
食糧が届くまでの時間を買うための資金だったのです。
桜町から大量の米が運び込まれ、天性寺の境内には救小屋が設けられました。粥の配分は厳格に管理され、不正や混乱が起きないよう細かく制度化されました。
結果として、数千人規模の飢民が集まりながら、餓死者は一人も出なかったとされています。
これは奇跡ではなく、「食糧があれば人は生きられる」という、あまりに当たり前の事実の証明となりました。
尊徳の真の目的は「食糧備蓄を制度化」
尊徳の仕事は、ここで終わりません。
彼が本当に伝えたかったのは、
「民を救ったあと、必ず食糧備蓄体制を作れ」
という一点でした。
支出を収入の範囲に抑えること。過去十年の実収穫を調べ、自然に見合った分度を定めること。
毎年必ず余剰米を生み、それを蓄え、凶年に備えること。
荒地を開き、将来の食糧生産を増やすこと。
これらはすべて、食糧備蓄を中心に据えた尊徳の国家再建策でした。尊徳にとっての防災とは特別な非常対策ではなく、「食糧を蓄え続ける政治」そのものだったのです。
「九年の蓄え」とは、安心の比喩ではありません。
それは、食糧を蓄えない国家は、いずれ必ず民を見殺しにする、という冷厳な警告でした。
二宮尊徳は、防災を説いたのでもなく、救助を主張したのでもなかったのです。
「国家とは、平時にこそ、何を積み上げる存在か」
を問い続けたのでした。
現代における二宮尊徳思想とは
現代の防災政策を考える際、尊徳を古い道徳家と捉えるのではなく「長期リスク管理の思想家」として読み直すべきでしょう。
ある試算によると、現代農業・食料システムは、エネルギーの60%〜80%程度を化石燃料(石油・ガス)に依存しているとされており、範囲を農地の生産現場だけに絞っても、50%以上が化石燃料由来とされています。
要は、石油などのエネルギーが無ければ、現代社会は、食料の半分も生産することができないのです。
それ故、尊徳の礼記の言葉を現代社会に対応させると、次のように現代のリスクを捉えることができます。
・食料の生産を輸入に依存していないか
・数年単位で国民を養える設計か
・備蓄を単にコスト削減の対象(「ムダな在庫」「使わないのが理想の費用」)と考えていないか
・災害をリスクとして考えずに、単なる非常時(「例外」「想定外」「特殊事件」)として処理しすぎていないか
これはまさに、現代日本の防災・エネルギー・食料政策の弱点と重なるように思えます。
現代に生きる私たちは、食料を市場や流通に委ねることに慣れすぎているのかもしれません。しかし二宮尊徳は、二百年前にすでに問いかけています。
「その国は、数年後も民に食料を与えられるのか」
この問いは、いまなお色あせていません。
二宮尊徳とは、いつか来るかもしれない危機に際し、平時からの“備蓄の大切さ”を訴え続けた人物でした。
※関連コラム
・二宮尊徳の『報徳訓』の防災格言(2012.01.30 思則有備)
《 執筆者 》
SEI SHOP(セイショップ)総合プロデューサー
平井敬也(ひらいひろや)
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